出雲そばの歴史!島根県出雲への旅行前に要チェック
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日本には、出雲そばのような「ご当地蕎麦」がたくさんあります。わんこ蕎麦や戸隠蕎麦は、出雲そばと同じ「日本三大蕎麦」と呼ばれており全国でも有名ですね。
出雲そばは一体いつから食べられていて、ほかの蕎麦と比べてどのような違いがあるのでしょうか。出雲そばの歴史を知って、「出雲そば通」として出雲そばを楽しみましょう。
目次
出雲そばとは
出雲そばとは、島根県の出雲地方で食べられている郷土料理です。日本三大蕎麦のひとつとして、岩手県の「わんこそば」長野県の「戸隠そば」と並び広く知れ渡っています。
出雲そばの特徴は、黒みの強い色と豊かな香りです。殻のついたそばの実をそのまま挽いて製粉するため、高い栄養価も持ち合わせています。
出雲そばには2通りの食べ方があります。ひとつは、「割子そば」です。三段に重なった赤くて丸い器に入った蕎麦の上につゆをかけて食べます。
もうひとつは、「釜揚げそば」です。ゆでた蕎麦に、とろみのある蕎麦湯・つゆ・薬味をかけて食べる温かい蕎麦をいいます。
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出雲そばの歴史
出雲そばは、出雲大社や城下町松江を中心に発展していった蕎麦です。
全国にはわんこ蕎麦や信州蕎麦などさまざまな「ご当地蕎麦」がありますが、ほかの蕎麦との関係性や、そもそもどの蕎麦がもっとも古いのかを疑問に思ったことはないでしょうか。出雲そばの歴史を知って、それらの謎を解明しましょう。
出雲そばのもっとも古い記録
出雲そばのもっとも古い記録は、「江戸参府之節日記(えどさんぷのせつにつき)」という江戸時代の日記です。
日記の作者は、佐草自清(さくさよりきよ)という当時の出雲大社の神主。日記の内容を簡単に紹介します。
日記では、出雲そばのことを「蕎麦切(そばきり)」と呼んでいます。さらに、とくに珍しい食べ物だとも書かれていません。
つまり、佐草自清が出雲そばを食べたときには、すでに日常で見かける食事のひとつだったと考えられます。そもそも蕎麦切りとは何なのでしょうか。
蕎麦切りとは
蕎麦切りとは、蕎麦の実からつくった蕎麦粉をねって作った生地を麺状に切ったものです。現代の蕎麦と非常に近いかたちだったといわれています。
「毛吹草(けぶきくさ)」「風俗文選(ふうぞくもんぜん)」という俳句をまとめた本によると、蕎麦切りの発祥は信濃国(長野県の信州)とのことです。蕎麦切は信濃国から全国に広まったと考えられています。
蕎麦切が普及するまでは、蕎麦粉と湯をねり混ぜて作った団子のような「そばがき」や、蕎麦粉を水で溶かして焼いた「おやき」で蕎麦を食べていたとされています。
佐草自清が食べたものは、信州発祥の蕎麦切だったといえます。では、いつ、どのようにして信州の蕎麦切が出雲に伝わったのでしょうか。
出雲そばの発祥は松平直政が伝えた信州の蕎麦切
島根県では、平安時代ごろから蕎麦の実の栽培が盛んでした。寒暖差の大きい気候と地質から、やせた土地でも栽培できる蕎麦の実は重宝されていたのです。
蕎麦の実の栽培が盛んであったものの、食べ方のメインはそばがきやおやき。そんななか、信州松本城の主だった松平直政が、江戸幕府の命令で行った「引越し(転封)」で島根へとやってくることになりました。
松平直政は転封する際、信州の蕎麦職人を一緒に連れてくることにしたのです。こうして、信州の蕎麦切という食べ方が出雲に広まりました。そのため、松平直政のいた松江城下を中心に発展していったのですね。
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出雲そばは30年もかからずに出雲全土に広まった
松平直政の転封は1638年。佐草自清の日記は1666年に書かれたものであるため、30年もかからずに信州の蕎麦切が出雲に広まったと考えられます。
これほど早く広まった理由として、島根県で蕎麦の実の栽培が普及していて、庶民にも簡単に手に入ったことがあげられるでしょう。
蕎麦切は庶民で打って食べられるため、普段の食事や店で提供する料理として普及していったと考えられます。あくまで、松平直政が広めた蕎麦切は、庶民を中心に広まっていったようです。
ちなみに、2月11日は「出雲そばの日」に制定されています。出雲そばを広めるキッカケとなった、松平直政の転封が決まった日が由来です。
出雲そばの地位を向上させたキッカケは松平治郷
松平治郷は1767年に松江藩の藩主となった人物です。江戸時代の代表的な茶人のひとりでもあり、不昧公(ふまいこう)という名でも知られています。松平治郷は大の蕎麦好きとして有名です。
茶会席の一品に蕎麦や蕎麦を使った茶菓子をだしたり、蕎麦を題材とした俳句を詠んだりしていたそう。お茶と同じくらい蕎麦を愛していたことがわかる、自作の句をひとつ紹介します。
ほかにも蕎麦が好物だったという記録がたくさんあります。国立国会図書館のレファレンス協同データベースで、その資料を知ることができますよ。
松平治郷がひらいた茶会では、大名や武士といった上流階級の人々が招待されていました。
そのため、お茶とともにだされた蕎麦は風流な料理として認識され、上流階級の人々に徐々に浸透していったようです。こうして出雲そばは、庶民だけでなく上流階級の人々にも食べられる料理になりました。
信州の蕎麦切りが独自に進化した出雲そばの歴史
出雲そばは、信州の蕎麦切が伝わってうまれたものだと紹介しました。とはいえ、出雲そばと信州の蕎麦切は同じものではありません。出雲そばは、出雲に伝わり独自の進化を遂げました。独自の進化のひとつとして、食べ方があげられます。
食べ方は「割子そば」と「釜揚げそば」の二種類です。それぞれの発祥の経緯と誕生の歴史を紹介します。
出雲そばの食べ方のひとつ「割子そば」誕生の歴史
割子そばは、三段に重なった赤くて丸い器に入った出雲そばです。主に城下町松江を中心に、出雲大社への参拝客・商人・武士のたち向けに提供される「お弁当用の蕎麦」としてうまれました。
お弁当用ということもあってか、独自の食べ方をします。食べ方は下記のとおりです。
・蕎麦の入った器が三段重なったままで提供されます。
・重ねたままの状態で一段目の蕎麦の上に薬味とつゆを直接かけます。
・一段目を食べ終えたあと、残ったつゆを下の段にかけて好みで薬味やつゆを追加します。
・空いた器を一番下に重ねて、三段目も繰り返して食べます。
現代の割子そばは、三段に重なった赤くて丸い器に入って提供されますが、元はそうではありませんでした。器はさまざまな経緯を経て、現代の丸い器になったのです。続いて器の移り変わった経緯を紹介します。
割子そばの器の移り変わりの歴史
割子そばは「お弁当用の蕎麦」として、器にさまざまな工夫が施されてきました。旅や出先で荷物にならないように白木で作った使い捨て容器や、持ち運びがしやすいにタンス型などがあげられます。しかし、いずれも衛生面に不安がありました。
そこで、抗菌・殺菌効果のある漆を塗った重箱が採用されることに。しかし、四角重箱は隅々まで洗いにくいことから、次第に現在のような丸い器に変わっていったと考えられています。
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出雲そばの食べ方のひとつ「釜揚げそば」誕生の歴史
釜揚げそばは、出雲大社の参拝客にふるまうためにうまれた「屋台用の出雲そば」です。全国の神々が集まる旧暦10月、出雲大社に多くの参拝客が集まります。
屋台で多くの人に出雲そばを提供するには、一般的な蕎麦と同じような調理方法はふさわしくありませんでした。
なぜなら、一般的な蕎麦はゆでたあと水洗いを行いますが、屋台では都度洗うことができないからです。そこで、ゆでた蕎麦と蕎麦湯を器にいれて提供することになりました。提供された蕎麦に、好みでつゆ・薬味をかけて食べるのが釜揚げそばの食べ方です。
出雲そば歴史のまとめ
出雲そばの歴史を紹介しました。出雲そばは、江戸時代から続く長い歴史をもった食べ物だったのです。割子そばや釜揚げそばがうまれた経緯には出雲大社が影響しているため、まさに出雲を代表する郷土料理といえるでしょう。
出雲そばの歴史を知ってから食べる出雲そばは、また違ったおいしさを感じるかもしれませんよ。島根県に訪れた際は、長い歴史をもつ出雲そばをぜひ食べてみてくださいね。